《People's Republic of China / 中華人民共和国〜Democratic People's Republic of Korea / 朝鮮民主主義人民共和国》
(2005年5月) 国境の橋 *
国境の橋 写真右が中国側で丹東市、左が北朝鮮側で新義州市。河の名前はここでは「鴨緑江」だが、上流の図們市では「図們江」となる。川の全長は約795km。 1712年、清(中国)と、清の属国状態であった朝鮮は、鴨緑江〜土門江(豆満江)を「境」とすることで合意、現在の国境線となる。鴨緑江は、朝鮮語では「アムルクカン」という。 ※丹東での情報(3つの旅行会社、談) * ●橋の歴史 日露戦争(1904〜05年)勃発前後、物資輸送の為に、中国大陸(大連)と朝鮮半島を結ぶ鉄道の建設を図ったが、この計画が現実のものになったのは、1908年のこと。この頃、日本が開拓した丹東市は「安東市」とよばれ、新義州市は「新義州府」と呼んでいた。 鴨緑江に架けられた1本目の橋は1908年、日本(朝鮮総督府鉄道局)によって造られた。朝鮮戦争時に米軍によって爆撃をうけ、5橋梁分が落ちたまま現在に至る。 2本目の橋は1943年4月に造られた。この橋も朝鮮戦争時に米軍によって爆撃をうけ、いくつかの橋梁分が落ちが、朝鮮戦争終了後に修復。現在、中国と北朝鮮をつなぐ、鉄路・自動車兼用橋として活躍中。
かつての鴨緑江橋梁の先端より北朝鮮を望む ※1本目の橋「鴨緑江橋梁」、現在の「鴨緑江断橋」 1908年、日本(朝鮮総督府鉄道局)によって鴨緑江に1本目の橋が造られた。当時の名称は「鴨緑江橋梁」で、旋回橋形式のものだった。全長944m。幅は11m、橋脚は12本。大型船舶の航行を妨げないように、中央部分が90度に旋回して開くシステムである。ただし第二次世界大戦中は、橋の旋回は中断していた。 朝鮮戦争時にアメリカ軍は、中国から朝鮮への補給路を断つため、2本の橋の破壊を実行した。鴨緑江橋梁は1950年11月8日と14日、アメリカ空軍機(B-29)の空爆により、中央の旋回部分と朝鮮側の4橋梁分の橋が落ちた。以降、修復はされていないが、1993年に整備・観光用に解放されている(20元)。 ※2本目の橋「鴨緑江第二橋梁」、現在の「中朝友誼橋」 1931〜1943年4月、日本(関東軍他)によって鴨緑江に、鉄路・道路兼用の2本目の橋が造られた。当時の名称は「鴨緑江第二橋梁」、全長946m。1本目の鴨緑江橋梁(現・鴨緑江断橋)との距離は、約100m。 朝鮮戦争時、1本目の鴨緑江断橋(現・鴨緑江断橋、1950年11月爆撃)に引き続き、1951年4月7日。アメリカ空軍機(B-29)は2本目の鴨緑江第二橋梁(現・中朝友誼橋)を爆撃。同橋は、朝鮮側の橋梁の橋部分が落ちた。 朝鮮戦争後、修復が比較的容易な2本目の、鴨緑江第二橋梁(現・中朝友誼橋、2本目の橋)だけ修復されて「鴨緑江大橋」と改称される。だがB-29の爆撃によって落とされた部分は、アーチがない(平らな部分)修復になってしまった(日本の高度な技術の再現は難しく、完全復元はされなかった)。 2003年、「鴨緑江大橋」は大幅に整備され、橋の名称を「中朝友誼橋」と改称する。現在は、この橋の利用時間を予め決めて、相互通行している。たまに観光バス(マイクロバス)やワゴン車の通行がある。また貨物専用列車や、モスクワ〜満洲里経由〜北京〜瀋陽経由〜平壌間の国際列車の運行もある。 ※河口断橋 1942年、日本(関東軍他)によって、安東(現・丹東)から更に上流、現在の遼寧省寛甸満族自治区河口鎮辺りに「鴨緑江河口橋梁」がつくられた。これは鉄路ではなく物資輸送のための自動車路の為の橋であった。朝鮮戦争時の1951年、アメリカ軍の爆撃により破壊された。 現在は「河口断橋」としてそのまま残っており、周囲はホテルや別荘が建つ「休暇村」になっている。対岸はやはり北朝鮮。
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